2017年1月6日金曜日

〈わたし〉のカリキュラムをどのように構築するか(前編)

大学における学び、とくに自らの専門性に関わる学びの中核がどこにあるかと問われれば、「授業」と答える人が多いのではないでしょうか。…多くいてほしいと願うのですが。(もちろん、授業外での学びが重要であることを私は否定しませんし、むしろ様々な学びが授業の外にもあってほしいと願っています。このお話は、あくまでも授業における学びに関わるものです。)

では、大学に入学してある程度の時間がたって、履修し終えた授業も多くなってきた段階で振り返ったときに、これまでの授業の積み重ね=自分の学びである、しかもそれが統一的なまとまりと方向性をもった「私の専門性」である、とアピールすることができる人(大学生)はどのくらいいるのだろうか。

学問的な専門性の説明(みなさんとの約束)の一つとして、大学では様々なところで学びに関わる「ポリシー」を示しています。新潟大学人文学部でも、自らの「アドミッションポリシー」「カリキュラムポリシー」「ディプロマポリシー」に基づいて教育・研究が行われているわけです。しかし、これらは大概おおざっぱな、どこにでも適用可能な当たり障りのない表現になっていて(もちろん、ここに込められた私たちの「願い」があることは真実なのですが…)、みなさん自身が納得できる、そうしてそこに因って立つことのできる「自分の言葉」たりえてはいません。

一方、そうしたポリシーの上で提供される個々の授業科目を選択していく上で、「この授業は私が究めようとする専門性とって必要だ」と思える授業はどのくらい存在しているでしょうか。学問的な専門性は、現代ではきわめて狭い範囲に設定される場合が多いものですし、それぞれの大学で提供される数多くの授業科目を履修する中で、どうかすると「それ以外」「プラスα」の部分が大きいなあと感じる人が多いかもしれません。もっとも、学問分野によっては、とりわけ技能を身につける・専門的職業に就く、という性格が強い分野では、プラスαを履修するゆとりとしての「選択の余地」がないということも往々にしてあるわけですが。

人文社会科学系はなにやってるのか/なんの役に立つのかわからんという批判は、外部からの評価が可能な「目に見えるカリキュラム」に対するこんな印象からも出てくるのでしょう(「人社系が問題」なのではなく、意味を説明できないことが問題なのですがね)。でも、個々の科目がどのように私の学びをつくっているかという問いに対しては自らの言葉を持たねばならない、という物事の本質はどの学問分野でも変わらない(持つ必要を感じていれば、の話ではありますが)と思うのです。そしてその説明によって生まれるのは、〈わたし〉自身のカリキュラムであるが故に、明示されてはいない「目に見えないカリキュラム」なのだと考えられます。  (後編に続く



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